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団塊の世代一代記 <シベリア抑留(シベリア捕虜収容所)> シベリア抑留とは、第二次世界大戦後のシベリア捕虜収容所において、日本兵約60万人が強制労働を強いられた事実をいう。大戦終結直前に対日参戦したソ連は、武装解除した日本兵を早期に復員させることなく 、シベリアに抑留して自国の戦後経済復興手段として用いたのである。 最近、こうしたシベリア抑留者の「未払い賃金」問題がクローズアップされてきている。当時のソ連政府はシベリア抑留者に対して労働証明書を発行せず、したがって日本政府も賃金を支払わないまま推移し、今日に至っているのである。 サイト内関連ページ(日本の近代戦争): サイト内関連ページ(船舶): 2003/05/06完了 ラジオ番組
”尋ね人” 主に外地(特に満州)で生き別れになった肉親、友人・知人を探すメッセージが多かったように思う。確かに”満州”という言葉を使っていたはずだ。淡々と原稿を読みあげるアナウンサーの一種独特の言いまわしが今でも鮮明に頭の中に残っている。番組の始めに流れていた音楽も合わせて覚えているという人も多いようだ。 ソ連対日参戦 満州でソ連軍と対峙したのは関東軍である。ソ連軍侵攻当時の兵力は約66万4千とされるが、かつての精鋭(昭和16、7年頃総兵力80万)はほとんど全部太平洋戦のため南方に投じられていた。 その穴埋めとして、支那派遣軍、あるいは現地応召兵(在満35万の日本人男子のうち15万人を”根こそぎ動員”)を当てていたが、編成も装備もきわめて貧弱で、きちんとした訓練はほとんどできていなかった。 敗戦後ソ連軍の管理下に入ったのは、これらの部隊に加えて、北朝鮮、樺太、千島にあった陸海軍部隊である。ただし、現地応召兵に対する独断での召集解除が行われたり逃亡するものも少なくなかった。ソ連軍は、それらの員数合わせに、「軍人狩り」「男狩り」を行って手当たり次第に日本人を無理やり連行した。 シベリア抑留 さて、ソ連に抑留された日本人の数は約60万人と推定されており、その大部分の人が何年にもわたる強制労働を強いられたのである。 ソ連軍は日本兵を約1千人を単位とする”作業大隊”(569個)に編成し直した。その際に従来の部隊に関係なく、各種の部隊を混在(数個〜十数個)させた。適当に団結力のない管理しやすい集団を作ろうとしたのであろうか。 作業大隊の指揮には、下級将校(大佐、中佐クラス)それも最小限の人数のみを残し、他の大部分の将校は、下士官、兵(作業大隊)と分離して”将校大隊”に編入された。こうして旧日本軍の組織は完全に破壊された。 日本兵は、シベリア(47万2千人)を始め外蒙古、中央アジア、ヨーロッパ・ロシアなどの捕虜収容所等に分散収容された。そして、大部分の日本兵(将校大隊を除く)は、それぞれの地域にある一般強制労働収容所(ラーゲリ)で強制労働をさせられることになったのである。 飢えと寒さと重労働 飢餓との戦い、ほとんど「働く動物」となりながら、望郷の念”ダモイ”(帰国)を夢見て、今年こそは今年こそはとがんばった。いつ帰れるのか果たしてほんとうに帰ることができるのか、期間の定めのない捕虜生活の中で、死の足音が近づいてくるのを聞きながら戦ったのである。 日本政府は当初、行方不明になった関東軍の消息について全くつかんでいなかった。幾人かの脱出者がもたらす断片的な情報によって、ソ連連行の事実をおぼろげにつかんでいたにすぎない。 敗戦翌年の昭和21年2月28日奉天発外電など、あるいは5月31日在モスクワ佐藤大使一行が帰国することによって、ようやくその状況がはっきりしてきた。6月11日、日本政府は連合軍総司令部宛、正式にその救援を訴えた。すでに敗戦から約十ヶ月も経った頃のことである。 引揚げ始まる(舞鶴港) なお、ソ連当局は日本人捕虜に関する情報(氏名、生死の別など)を日本側に全く提供していなかった。したがって、”未帰還者の消息”については引揚者からの聴き取り調査だけが頼りとなった。ところが、ソ連当局はナホトカで引揚者が持っていた”字を書いたものすべて”を没収してしまった。これらの行為は、捕虜の待遇について定めた「陸戦の法規慣例に関する条約(ハーグ条約)1907年」に明らかに違反している。 参考までに、満州からの一般人の引揚げは、1948年(昭和23年)8月一応終了したとされている。しかし、現地日本人妻、中国残留孤児の発生などその犠牲の大きさは計り知れないものがある。加えて、永久に生きて帰ることのできなかった多数の人々がいる。 民主運動とは 民主運動を主導したのはソ連政治部将校で、その手段として「日本新聞」が大きな役割を果たした。日本新聞とは、ハバロフスクで発行されていた日本語新聞で、”ソ連軍が日本人捕虜に与える新聞”(第一面に記載)という性格をもっていた。 日本新聞は敗戦翌月にはすでに創刊され、昭和20年9月15日付け創刊号から24年11月7日付け640号まで続いた。発行部数は10万部程度で週平均約3回位のペースで発行され、捕虜4〜5人に一部くらいの割合で配布された。編集長以下日本人の従業員も70名(ソ連人63名)おり、そのトップはシベリア民主運動における日本人の最高指導者層そのものであった。 収容所内で日本人指導者の地位に就いたのは、いくつかの権力闘争の末(昭和23年春頃)、最終的には多くの場合、日本での教育年数の少ない25歳以下の下級兵士であった。彼らは作業大隊の指揮権を下級将校から奪い取ることによって思いもかけない”権力の座”についた。そして”アクチーブ”(積極分子)としての特権をほしいままにしたのである。 特権の第一は、なんといっても過酷な労働から解放されることである。さらに炊事場を監督下におくことによって食物の心配をする必要がなくなる。こうなればシベリアの極寒もあまり気にはならないだろう。 しかしその彼らを任命するのはソ連当局である。意に沿わない行為をすればたちまちにしてその立場を追われることになる。アクチーブになるために、そしてなってからも積極的な”学習”と”活動”が求められた。 民主運動の目的 さて、アクチーブの活動はこれらソ連当局の意向にそったものとなるのは当然である。収容所内での民主運動学集会を開催して講師を務める。その成果によって、より上位の学校で学ぶ機会を得る。などといった実践が続いた。 アクチーブが中心になって反動を批判攻撃するために、しばしば激しい”吊し上げ”が全員参加で行われた。ここで反動とは、前職者、軍国主義者に限らず、共産主義ソ連の反対者全般と言うことになるが、反動がほとんどいなくなった後では、アクチーブ自身の地位安泰のために、ささいな言いがかりをつけて反動を無理やり作り出すといった状況が見られた。 反動は永久に帰国させない、というおどしをかけられ、事実帰国を遅らされる者が相次いだ。こうして多くの者は、次々と自己批判をして”ダモイ(帰国)用民主主義者”となっていった。 反動から民主主義者へ転向した証しを示すには積極的な活動をする必要があった。まだ残る反動を吊し上げて罵詈雑言を浴びせること、あるいは前職者の密告、そしてでっち上げまで行われた。 長期抑留者 しかし、彼らは決して戦犯ではない。戦前の日本国でそれぞれの職務を全うしていたにすぎない。戦争終結直前の数日間、敵の圧倒的武力におしまくられた彼らに、敵国に対して戦犯行為を働く余裕など全くなかった。そのことはソ連当局も認めていることである。 様々な交渉の末、なんとかシベリア長期抑留者の引揚げが一応完了したのは1956年(昭和31年)12月26日である。その総数2689人、帰国船が入港するたびに、そこには今日も待ちつづける”岸壁の母”がいた。 シベリアの悲劇 将校の中で彼らの部下である兵士の待遇改善に尽くしたものはほとんどいない。それは、作業大隊から切り離された上級将校および作業大隊を直接指揮する立場にあった下級将校ともに同じである。 将校たちは、民主化運動の高まりの中でなすすべもなく権力の座を下級兵士に明渡してしまった。そして一部兵士の中では、自分の欲得のみを考え、帰国のためには友を売り渡すような裏切り、背信行為が 行われた。 ソ連抑留者総数60万人から短長期抑留帰国者数を差し引くと、死亡・行方不明者約6万9千人(全体の1割強)となる。対ソ戦の戦死者は2万7千名と推定されており、戦闘が終了した後に、戦時に倍する以上の人がむなしく死んでいった計算になる。また、無事帰国できた人々も肉体的・精神的に大なり小なりのダメージを受けていた。 なお、短期抑留者の帰国直後の時期に、民間人約3000人が樺太に抑留(主として経済犯として)されていたという。関東軍を中心とする将兵だけでなく抑留の対象となった一般民間人がいたのである。 補足 参考文献: 岸壁の母: キーワード: AKIMASA.NET
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