| AKIMASA.NET >>
団塊の世代一代記 <陸上競技> 中学・高校時代の私はクラブ活動で陸上競技部に所属した。五日市中学校には1周200mの良いトラックがあったが、なぜだか入部当初の記憶では、隣の広島造幣局のグランドでダッシュを繰り返していたことが多かったように思う。野球部の練習とかち合っていたのか、あるいは造幣局のグランド周辺部は草が生えており柔らかで、足腰にやさしいということだったのかもしれない。3年生が主導する自主練習が多かった。(廿日市高校のグランドは一周300mでここもよく整備されていた) 五日市中学陸上部は、佐伯郡(現・広島市佐伯区+廿日市市+広島県佐伯郡)では1〜2を争うほど強かった(監督、沖井義彦先生)。その中でも特に私達の学年は人数も多く強かった。私は2年生の3学期になってやっと駅伝Aチームのメンバーになった。3年生ではトラック400mにも出場した。当時陸上競技大会は佐伯郡・大竹市として行われることが多く、ダントツで強い大竹中学が大きな目標であった。 昭和37年(1962年)トラック400m 昭和35年11月27日
第21回大会(1年生の時) 昭和36年11月26日
第22回大会(2年生の時) 昭和37年11月26日
第23回大会(3年生の時) 私が出場した3年生の時のコースは、中國新聞呉支社前から旧・中國新聞本社(現・三越)前までの8区間28kmであった。私は、Aチームの8区(アンカー)を任された。大洲橋からゴールまでの3.7kmである。この年のチームは強くて新チーム結成以来好成績をおさめており、本大会でも私にタスキリレーされたときは4位であった。3位のチームはかなり前に行ってしまっていたが、すぐ後ろに同じ佐伯郡(当時)の友和中学がせまっており、途中で抜かれてしまった。 順位は1つ落としたけれども、強い学年のなかで競り合って、最終学年でやっと本大会に出場できたことで満足であった。チームの目標(10位以内)も大きく上回る成績で皆とも喜びあった。広島市内の繁華街で、電車通りを片側通行止めにした中を走る気分は最高である。たしか翌年からは選手1人が通れる程度の幅を確保するようになったのではないだろうか。 昭和13年(1938年)第1回大会開催 広島(陸軍第5師団)、呉(海軍鎮守府)は日本でも有数な軍都であった。この両市を結ぶ国道が完成したのは昭和13年10月15日のことで、国道完成を機に「軍都少年駅伝」は始まった。出場資格は、高等小学校1、2年、中学1、2年在学中に限り、「数え年15歳以下」(満14歳以下)であった。 敗戦前後の昭和19年、20年の中断はあったが、戦後、中国少年駅伝として再開された。その後、交通事情等から開催場所を海岸線から内陸部へ変えたりしながら、第50回中国中学校駅伝(平成元年−1989年11月26日)を迎え現在に至っている。 中学生対象の駅伝で戦前から続いているものは見当たらないらしい。長距離王国広島を基礎から支えてきた大会であり,采谷義秋(うねたに・よしあき)さん・ミュンヘン五輪マラソン代表など、この駅伝から五輪選手や全国的な名選手が輩出している。 私は中国駅伝に出場したことがある。高校2年生の冬のことである。ただし廿日市(はつかいち)高校として出場したのではない。佐伯陸協B(郡市の部)のメンバーとして出場したのである。当時廿日市高校にも駅伝メンバーとして本大会8区間を満たすだけの人数は揃っていた。しかし、そのメンバーでは独立したチームは組めない、つまり出場は出来ても大会として恥ずかしくない成績は残せないということになった。そこで、廿日市高校生を佐伯陸協ABの両チームに振り分けて出場させてもらったのである。 昭和40年(1965年)1月31日
第32回大会 中国駅伝は、一般の部、郡市の部、高校の部と3部制で行われていた。その制度によってこの伝統ある駅伝に参加することができ、出場者名簿に名前が残っていることは大変な光栄である。私の参加した佐伯陸協は、戦後まもないころ、八幡製鉄を向こうに回して優勝(一般の部)したこともある伝統のあるチームである。そこに流れる人と人のつながりによって私たちの参加が可能となったのであろう。感謝申し上げるほかはない。 中国駅伝は、福山(備後)と広島(安芸)という広島県を代表する2大都市を結ぶ100km余り8区間で行われた(中国新聞社主催)。スタートは福山駅前(第19回昭和27年大会より中国新聞福山支社)ゴール旧・中国新聞本社前(第35回昭和43年大会より平和記念公園)。箱根駅伝と並んで日本を代表する駅伝であった。 第1回大会は昭和6年2月11日に開かれた。以後戦前はこの紀元節開催が恒例となる。戦前の大会は、第2回大会からは一般青年(青年団)、学生の2部制をとった。昭和19年2月11日第14回大会が戦前最後の大会である。この大会は主催・大日本体育会広島県支部(中国新聞社は協賛)、スタート・ゴールは福山・広島のそれぞれの護国神社であったが、中国駅伝の名前だけは残した。なお学生の参加はなかった。 昭和20年中止、21年・22年には広島呉間往復駅伝実施。昭和23年(1948年)2月11日第15回大会が戦後正式な復活大会となる。この年憲法が発布されて、国民の祝日が変更となり、紀元節は廃止、新たに「成人の日」が生まれた。 次回大会はこの成人の日に行われたが、それ以降は1月の最終日曜日(あるいは2月第一)に実施された。平成7年第62回大会を最後に「全国都道府県対抗男子駅伝競走大会」として発展的に解消している。 中国駅伝には幾人ものオリンピック選手が参加した。第55回大会まででその数32名にのぼる。 注意点: 大正9年(1920年)11月17日
広島県佐伯郡吉和村生まれ 専攻分野 体育運動学(とくに陸上競技)
君原が男子マラソン2位に入りその理論は証明されたが、采谷義秋も自分と同じ広島県出身者であり、高橋の胸中は複雑であったに違いない。采谷が次のミュンヘン五輪に出場してほっとした、と後に述懐している。 戦後、3000m障害のスペシャリストとして活躍。 中国駅伝(中学の部、旧制広島一中) 旧制広島一中三年で参加した中国駅伝は7区2位。初レースでの敗戦が以後の精進につながったという。「中国駅伝最多の13個の区間賞が何よりの勲章」と生涯にわたって言い続けた。 高橋を中心とした佐伯体協は強かった。実業団の八幡製鉄を向こうに回し一般の部で優勝したこともある。1952年(昭和27年)、高橋はその八幡製鉄に請われて基町高校教員から移籍してさらに活躍、選手生活は昭和11年から35年(39歳)の四半世紀におよんだ。現役引退後は指導者として君原他多くの選手を育てた。日本陸連終身コーチ。 昭和39年(1964年)東京オリンピック8位(23歳) 中国駅伝(一般の部、八幡製鉄) 昭和47年からチーム名は新日鉄、昭和59年チームとして最後の出場。 大竹中学陸上競技部監督(17年間)として中学駅伝14回優勝 中学駅伝(広島一中)第1回大会から2回連続出場 私の廿日市(はつかいち)高校時代の陸上部監督である。大竹中学の望戸豊数先生の教え子。中国駅伝最多出場記録保持者(23回) 中学駅伝(大竹中)2回連続出場 私の五日市中学・廿日市高校時代の同級生である。中学校教員。 中学駅伝(五日市中学)昭和35〜37年、3回連続出場 AKIMASA.NET
|