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江戸のお殿様(各家ごとの歴史)

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浅野家

浅野長勝
浅野長政(長勝養嫡子)

  • 長政の長男・幸長(紀伊和歌山藩)、病没後、弟長晟が継ぐ
  • 長政の二男・01長晟(安芸広島藩)、備中足守−紀伊和歌山−安芸広島
    • 長晟の嫡子・02光晟(長政の孫)、広島浅野藩2代藩主となる
      • 長賢、06吉長の弟(広島新田藩)
    • 長晟の長男・長治(長政の孫)(備後三次藩)庶子、5代で断絶
  • 長政の三男・長重(下野真岡藩)、下野真岡−常陸真壁−常陸笠間−播磨赤穂(江戸城松の廊下)、長重から数えて4代で断絶

紀伊和歌山藩、1600年〜1613年(100浅野)

紀伊和歌山藩、1613年〜1619年(200浅野)

浅野長勝(ながかつ)、尾張住人、妻の姉の娘二人を養う
姉の方を、木下籐吉郎に嫁がせる(後の北政所、"おね"あるいは"ねね")
妹の方を、浅野長政(自分の養子)に嫁がせる
すなわち、長政は秀吉と義兄弟の間柄にあり、秀吉配下で活躍する

浅野長政(ながまさ)、1547〜1611年
1583年、大津城主、ついで小浜城主、後に長男の浅野幸長(よしなが)ともども甲斐国配領(甲府城)。関が原では東軍に属する。紀伊の国守となり、和歌山城を現在の姿にする。
1605年(慶長10年)江戸にて隠居。
1606年、隠居領として常陸真壁5万石を与えられた。
1613年、長男の幸長(よしなが、和歌山浅野藩初代藩主)没、二条城会見(徳川家康と豊臣秀頼)の翌々年のことであった。後を弟の長晟が継いで2代藩主となる。長晟は、後に福島正則改易後の広島へ移封、和歌山藩のその後には、徳川家康の十男頼宣(よりのぶ)入府。

間違い発見:2009/08/27
池波正太郎「真田太平記(十一)大阪夏の陣」新潮文庫(全12冊)P.428、12行目

ことに、但馬守(たじまのかみ)長晟の亡父・浅野幸長(よしなが)が、加藤清正と共に、ひたすら豊臣家の安泰を願って、家康と豊臣秀頼の二条城の対面を実現したことは、くわしくのべておいた。

Web作者注:長晟(ながあきら、浅野長政の二男)と幸長(長政の長男)は兄弟である。長晟は、幸長病没後、和歌山浅野藩を継いで2代藩主となる。(その後、安芸広島移封)

安芸広島藩、1619年〜幕末(200浅野)

藩祖・浅野長晟(ながあきら、長政の二男)
豊臣秀吉の小姓、関が原の戦い後、徳川家康に仕える
1610年(慶長15年)、備中足守2万4千石
1613年(慶長18年)、紀州和歌山37万石(兄死去の為、宗家を継ぐ)
1616年、蒲生秀行(ひでゆき)未亡人振姫(ふりひめ、徳川家康の娘)が嫁す。嫡子光晟(みつあきら、後の2代藩主)誕生、つまり、家康の孫にあたる。
1619年(元和5年)、福島正則改易後に広島浅野藩初代藩主となる、42万6千石

備後三次藩、1632年〜1720年(210浅野)

藩祖・浅野長治(ながはる、長晟の長男−庶子)
広島浅野藩2代藩主となった嫡子光晟が、異母兄のため分与独立させる(5万石)
藩祖の息女阿久里は、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩の正室(後の瑶泉院)
代々後継者に恵まれず5代で断絶、広島本藩に還付

広島新田藩、1730年〜幕末(220浅野藩)

藩祖・浅野長賢(ながかた)
兄の浅野吉長(よしなが、広島藩6代藩主)から、当初蔵米3万石にて分知、江戸定府(封地は特に定めず)
1864年、安芸吉田に陣屋を置く

下野真岡藩、1601年〜1611年(300浅野)

常陸真壁藩、1611年〜1622年(300浅野)

常陸笠間藩、1622年〜1645年(300浅野)

藩祖・浅野長重(ながしげ、長政の三男)
1600年、徳川秀忠の小姓となる。
1601年、関ヶ原(浅野家は東軍側につく)後、下野真岡藩2万石(陣屋)立藩。
1611年、父長政の死去に伴い、父の隠居料5万石をそのまま相続して常陸真壁に転封、真壁藩を興し陣屋を構える。ただし、真壁藩立藩の時期について、藩史大事典は父長政が常陸真壁に隠居料5万石を与えられた時点としている。
1622年(元和8年)、常陸笠間(笠間城)に5万3500石で転封して、城持ち大名となる。この措置は、長重の種々の活躍に対して加増転封の内示があったにもかかわらず、長重が亡き父長政の菩提寺がある真壁の領有を望んだ結果である。すなわち、笠間藩の石高のうち2万石は、旧地真壁の一部 (父長政の菩提所である伝正寺を含む)を飛び地として残したものである。そして、真壁陣屋は笠間藩の真壁出張所となり、ここに真壁藩は消滅する。

播磨赤穂藩、1645年〜1701年(300浅野藩)

赤穂浅野藩、藩祖・浅野長直(ながなお)
(長重の長男、笠間浅野藩2代藩主、赤穂浅野藩初代藩主)
1645年(正保2年)、笠間から赤穂へ移封、5万3500石
1652年、山鹿素行(兵学者、儒学者)を禄高一千石で召抱える
赤穂城の縄張りは山鹿素行による

浅野長友(ながとも、長直の長男、2代藩主)5万石
1671年、就任と同時に、長直養子長賢に3500石、同二男長恒に新田3000石分知する
浅野長矩(ながのり、長友の長男、3代藩主)5万石
1701年、内匠頭長矩、吉良上野介に対して殿中で刃傷に及び改易

池田家

池田勝入斎信輝(恒興)
池田輝政(恒興二男、播磨姫路藩)、三河吉田−播磨姫路−因幡鳥取−備前岡山

  • 輝政長男利隆
    • 利隆長男光政(輝政の孫)
    • 光政の弟、恒元(備前児島藩)、備前児島−播磨山崎(3代で断絶)
      • 光政二男(岡山新田藩・鴨方)
      • 光政三男(岡山新田藩・生坂)
  • 輝政二男忠継(備前岡山藩)、忠継急逝後、忠雄が継ぐ
  • 輝政三男忠雄(淡路洲本藩)、淡路洲本−備前岡山−因幡鳥取
    • 忠雄長男光仲(輝政の孫)
      • 光仲二男(鳥取東館新田藩・鹿奴)
      • 光仲三男(鳥取西館新田藩・若桜)
  • 輝政四男輝澄(播磨山崎宍栗藩)、輝澄の家臣団騒動にて除封
    • 輝澄の子(播磨福本藩)
  • 輝政五男政綱(播磨赤穂藩)、政綱に嗣子なく一時除封
  • 輝政六男輝興(播磨佐用藩)、播磨佐用−播磨赤穂(輝興の乱心にて除封)

池田長吉(恒興三男)、因幡鳥取−備中松山(3代で断絶)

関ヶ原の役(1600年)の戦功により、池田輝政(てるまさ、池田勝入斎信輝(恒興)の二男)が、播磨一国52万石で姫路城に入る。また、恒興三男の長吉(ながよし、輝政の弟)が、因幡国岩井・邑美・八上郡6万石で鳥取藩を立藩する。

輝政は、徳川家康の二女督姫(とくひめ)を迎え入れ(1594年)、忠継(ただつぐ)、忠雄(ただお)、輝澄(てるずみ)、政綱(まさつな)、輝興(てるおき)が生まれている。輝政嫡男の利隆(としたか)にとっては異母弟ということになる。しかし、家康の外孫にあたる彼らは、何かにつけて優遇されている。例えば、忠継は小早川秀秋(無嗣断絶)の後を受けて、岡山藩にわずか5歳で封じられている(1603年)。

輝政急死(1613年)に伴い、姫路藩は嫡男利隆(池田宗家)が継ぐ。その時、異母弟(輝政二男)の忠継(岡山池田藩主)に、播磨国西部の佐用・宍粟・赤穂三郡内のうち13万石が分与された。それと同時に、輝政三男の忠雄は、姫路藩の属領となっていた洲本藩を再度立藩する。

しかし、忠継が早世(1615年)したため、忠雄(忠継の次弟)が洲本藩から移り岡山藩を継ぐ。この時、忠継・忠雄の弟3人が、播磨国佐用・宍粟・赤穂三郡でそれぞれ立藩する。これらの地域は、利隆から忠継に分与されていたものである。しかし、これら3家はいずれもすぐに絶えてしまい、わずかに播磨福本藩1万石の名前が残るのみである。

姫路池田藩の3代藩主・光政(みつまさ、利隆の嫡男)は、利隆死去(1616年)に伴い家督を継ぐ。しかしながら、幼少(8歳)を理由に、翌1617年に播磨姫路藩から因幡鳥取藩へ転封される。そして、因幡鳥取藩の池田長幸(長吉の長男、2代藩主)が備中松山藩へ転封となる(長吉から数えて3代で廃絶)。

そしてその後、今度は、備前岡山藩の池田光仲(みつなか、忠雄の嫡男)がわずか3歳で家督を継ぐことになった時(1632年)、ふたたび幼少を理由に国替えが行われた。このときは、幼い光仲が因幡鳥取藩主となり、入れ替わりに光政(光仲の従兄、ともに輝政の孫)が備前岡山藩主となる。

こうして、池田宗家(光政系)が岡山藩、家康の血を引く池田家(光仲系)が鳥取藩に落ち着くこととなり、その支配は幕末まで続いた。

なお、岡山池田藩3代藩主の光政は、1948年に弟の恒元(つねもと)を藩祖とする児島藩を支藩として立藩している。しかし、すぐに播磨山崎藩に移った恒元から数えて3代目が夭折したため断絶している。

播磨姫路藩、1600年〜1617年(110池田)

因幡鳥取藩、1617年〜1632年(110池田)

備前岡山藩、1632年〜幕末(110池田)

藩祖・池田輝政、池田勝入斎信輝(恒興)の二男
関ヶ原の役の戦功により、姫路城に入る。

輝政の孫の光政(3代藩主)の時、幼少(8歳)を理由に播磨姫路藩から因幡鳥取藩へ転封される。池田宗家の鳥取藩転封に伴い、鳥取藩2代藩主の池田長幸(輝政の弟である長吉の長男)が備中松山藩へ移封される。

そしてその後、今度は、備前岡山藩の池田光仲(輝政の孫、徳川家康の外孫)がわずか3歳で家督を継ぐことになった時、ふたたび幼少を理由に国替えが行われることになった。そしてこの時には、光仲が因幡鳥取藩に移り、入れ替わりに光政(池田宗家)が備前岡山藩に移る。

因幡鳥取藩、1600年〜1617年(200池田)

備中松山藩、1617年〜1641年(200池田)

藩祖・池田長吉、恒興三男(輝政の弟)
2代藩主長幸(長吉長男)のとき、池田宗家の因幡鳥取藩転封に伴い、備中松山藩へ移封される。しかし、長吉から数えて3代目で嗣子なく除封。

備前児島藩、1648年〜1649年(111池田)

播磨山崎藩、1649年〜1678年(111池田)

藩祖・池田恒元(光政の弟、輝政の孫)
児島藩は、岡山池田藩(3代藩主光政)の支藩として立藩される。しかし、わずか1年で廃藩(領地は岡山藩に還付)となる。理由は、藩祖・恒元が播磨山崎藩へ転封となったためである。

山崎藩の藩祖は、池田輝澄(輝政四男)である。輝澄は家臣団の騒動に巻き込まれて(池田騒動)改易となり、その後は、松平(松井)氏が領有していた。しかし、それを継いだ二度目の山崎池田藩も長くは続かず、恒元から数えて3代目が夭折したため断絶。以降本多氏が領有。

岡山新田藩・鴨方、1672年〜幕末(112池田)

岡山新田藩・生坂、1672年〜幕末(113池田)

ともに、岡山池田藩の支藩である。
藩祖・池田政言(光政の二男)、鴨方(かもがた)
藩祖・池田輝録(光政の三男)、生坂(おうさか)

備前岡山藩、1603年〜1615年(120池田)

淡路洲本藩、1613年〜1615年(130池田)

藩祖・池田忠継(池田輝政の二男)、岡山藩
藩祖・池田忠雄(池田輝政の三男)、洲本藩

忠継、忠雄ともに徳川家康の外孫(母は二女督姫)である。したがって、輝政嫡男の利隆(池田宗家)とは異母兄弟にあたる。

岡山藩には、小早川秀秋(無嗣断絶)の後を受けて、忠継がわずか5歳で封じられた。輝政の嫡男・利隆(姫路池田藩主)は、父の輝政急死(1613年)に伴い、異母弟(輝政の二男)の忠継(岡山池田藩主)に、播磨国西部の佐用・宍粟・赤穂三郡内のうち13万石を分与した。

洲本藩は、姫路藩の属領となっていたものを、輝政の死去に伴い再度立藩したものである。洲本藩は、藩祖の池田忠雄が兄忠継の遺領(岡山藩)を継ぐことになり廃藩、一時収公された。そして同年、阿波徳島藩主に与えられ、その後、徳島藩家老稲田氏が淡路城代兼仕置職として居住した。

備前岡山藩、1615年〜1632年(130池田)

因幡鳥取藩、1632年〜幕末(130池田)

備前岡山藩は、池田忠継(岡山藩主)急逝に伴い、弟の忠雄(洲本藩主)が継ぐ。そして、その忠雄の死去に伴い、嫡男の光仲がわずか3歳で家督を継ぐことになった。その時、光仲の幼少を理由に、光仲と光政(光仲従兄の因幡鳥取藩主)を交代させる国替えが行われた。
この時から幕末まで、光仲系池田氏が因幡鳥取藩を支配することになる。なお、鳥取池田藩(光仲系)は家康の血筋を引いており、宗家の岡山池田藩(光政系)よりも石高は高く破格の扱いを受けている。

鳥取東館新田藩・鹿野(鹿奴)、1685年〜幕末(131池田)

鳥取西館新田藩・若桜、1700年〜幕末(132池田)

ともに鳥取池田藩の支藩である。
藩祖・池田仲澄(光仲の二男)、鹿奴(しかの)
藩祖・池田清定(光仲の四男)、若桜(わかさ)

播磨山崎藩、1615年〜1640年(140池田)

播磨赤穂藩、1615年〜1631年(150池田)

播磨佐用藩、1615年〜1631年(160池田)

藩祖・池田輝澄(池田輝政の四男)、山崎藩
藩祖・池田政綱(池田輝政の五男)、赤穂藩
藩祖・池田輝興(池田輝政の六男)、佐用藩

3人とも忠継(岡山藩主)、忠雄(洲本藩主)と同じく徳川家康の外孫(母は二女督姫)である。つまり、輝政嫡男の利隆(池田宗家)の異母弟にあたる。

そして、3人同時に、早世(1615年)した兄忠継(岡山藩主)の所領から分与、立藩している。これらの所領(いずれも播磨国)は、輝政死去(1613年)に伴い、利隆から忠継に分与されていたものである。

なお、忠継亡き後、岡山藩そのものは忠雄(洲本藩主)が継ぐ。

播磨福本藩、1662年〜1665年(140池田)

播磨福本藩、1868年〜幕末(140池田)

播磨赤穂藩、1631年〜1645年(160池田)

池田輝澄(山崎藩主)は、弟の輝興(佐用藩主)の赤穂藩転封に伴い廃藩となった佐用藩を吸収した。そして、新旧家臣団による騒動(池田騒動)に巻き込まれて改易された。

その間に、岡山池田家は次兄忠雄が継いだ後、その子光仲のとき因幡鳥取藩に転封となっている。輝澄は改易後、甥である鳥取藩主・池田光仲預かりとなり、鳥取藩内の鹿野において堪忍料1万石を与えられた。

輝澄の後は子の政直が継ぎ、輝澄の死後に播磨福本藩(1万石)を立藩する(鳥取藩の支藩的立場)。しかし、政直は嗣子なく没したため、弟二人に所領を分割、それぞれ交代寄合および旗本(ともに1万石以下)となる。そして、幕末にふたたび福本藩立藩(1万石余)。

輝澄改易後の山崎藩は、松平(松井)氏が領有した後、一時天領となる。その後すぐに、池田恒元(光政の弟)が備前児島藩(岡山池田藩の支藩)から入る。しかし、恒元から数えて3代目で嗣子なく除封、以降本多氏が領有。

池田政綱(赤穂藩主)には嗣子なく一時除封となる。すぐ後に、弟の輝興(佐用藩主)が遺領を継承して赤穂藩主となる(佐用藩は廃藩)。ところが、輝興突然の乱心にて所領没収、宗家(甥の岡山藩主・池田光政)お預けとなる。

赤穂には浅野氏が代わって入り、後の「忠臣蔵」へとつながることとなる。

なお、佐用藩は輝興一代で廃藩となり、旧領は兄の輝澄(山崎藩主)が継いだ。これが池田騒動(新旧家臣団の対立)のきっかけとなっていく。

岩城家

2万石、外様、柳間、城主格(当初は陣屋)

佐竹義重

  • 佐竹義重の長男、佐竹義宣、出羽久保田(秋田)20万石
  • 佐竹義重の二男、蘆名義広、常陸江戸埼・・・出羽角館
  • 佐竹義重の三男、岩城貞隆、信濃川中島1万石
    • 01岩城吉隆(貞隆の長男)、信濃川中島−出羽亀田(立藩)2万石
      さらにその後、伯父佐竹義宣(佐竹義重の長男)の後を継ぎ、久保田藩2代藩主(佐竹義隆)となる
  • 佐竹義重の四男、岩城宣隆(のぶたか、多賀谷宣家を改める)
    • 02岩城重隆(宣隆の長男)−03秀隆(02重隆の長男・景隆の子)−04隆韶(たかつぐ、仙台藩主・伊達吉村の弟の伊達村興(宮床伊達氏)の子)−05隆恭(たかよし、仙台伊達一門岩谷堂伊達家当主)−以下幕末まで存続
      注:宣隆は藩主ではなく番代(代つなぎ)とされている

陸奥磐城平藩、〜1600年(100岩城)

戦国時代、岩城、佐竹、伊達などの諸氏は、それぞれに姻戚関係を結び合従連衡を繰り返していた。たとえば、岩城家の当主岩城常隆が小田原征伐直後に病死した時には、佐竹義重の三男・貞隆が岩城家を継いでいる(養嗣子)。そして、岩城常隆の実子・政隆は、伊達氏に戻り、のちに伊達一門の岩谷堂伊達氏の初代当主となった。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、佐竹義宣(佐竹義重の長男)と岩城貞隆(佐竹義重の三男)の兄弟は、東軍にくみしたもののその態度があいまいであったため、徳川家康の怒りを買う。その結果、佐竹義宣は常陸国54万石から久保田(秋田)20万石へ減転封、岩城貞隆は磐城平12万石を没収された。

岩城貞隆は、その後江戸・浅草で浪人生活を送りながら機会をうかがい、慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で本多正信にしたがい戦功をあげる。

信濃川中島藩、1616年〜1623年(100岩城)

岩城貞隆は、元和2年(1616年)に信濃川中島(中村)に1万石を与えられ大名として復帰する。元和6年(1620年)10月病死。

貞隆の遺領は吉隆(貞隆の長男)が継ぐ。そして、元和8年(1622年)10月には、出羽国由利郡に1万石を加封され都合2万石となる。

出羽亀田藩、1623年〜幕末(100岩城)

岩城吉隆(川中島岩城藩2代藩主)は、元和9年(1623年)11月、信濃の所領を由利郡に替地され、亀田(2万石)に国替えとなる。さらにその後、伯父佐竹義宣(佐竹義重の長男)の後を継ぎ、久保田藩2代藩主(佐竹義隆)となる。

01岩城吉隆の後は、多賀谷宣家(のぶいえ、佐竹義重の四男、多賀谷重経の養嗣子)が継いで岩城宣隆(のぶたか)となる。この場合、叔父(佐竹義重の四男)が甥(佐竹義重の三男の子)の跡を継ぐ形となる。当時一般的には、下の世代から上の世代への継承はあまり歓迎されておらず、史書においては宣隆は藩主ではなく番代(代つなぎ)とされている。

02重隆(宣隆の長男)、03秀隆と継いで佐竹の血筋は薄れてゆき、その後は、04隆韶、05隆恭と仙台伊達家から養子を受け入れ、その血筋が当地(秋田県由利本荘市岩城)にて幕末まで続いている。